【靴の記念日はなぜ3月15日?】
西村勝三の名は、靴の関係者であれば、一度は耳にしたことがありますが、一般の方は馴染みが無いと思います。西村氏は明治3年3月15日に陸軍の兵士用の靴を国内生産するために、築地入船町に日本初の靴工場
「伊勢勝造靴場」を設立しました。 これを記念して、昭和6年11月東京靴同業組合は靴の記念日を慎重に考えた末、組合広報で広く同業者の意見をもとめ、役員会で熟議した結果、靴業界にとり、もっとも由緒の深い3月15日を靴の記念日として制定しました。翌昭和7年3月15日よりこの日を奉仕デーとして、ポスターを作成し一般に浸透するよう宣伝を始めました。
この記念日のイベントは形は変わって行ますが現在も継続しています。
【西村勝三はどんな人?】
西村勝三を語るとき、ある書物で、あの坂本龍馬と比較されていました。龍馬は新大陸のライフスタイルに影響を受け、羽織、袴にショートブーツらしき洋靴を履いた写真が残っています。
新しい時代を生きるモダンな靴を履く侍。時代を大きく変えた龍馬の活躍はご承知の通りです。 一方、勝三は侍を捨てて商人となった新しい時代の先駆者として、波乱万丈の生涯を通し、産業の発展に大きく貢献をしました。どちらも新しい時代を駆け抜けた侍でした。
【西村勝三の生涯】
勝三は天保七年(一八三六)江戸丸ノ内佐野藩邸内に生まれ、少年時代は三平と言い、佐倉藩江戸邸で父母と平穏に暮らしました。
藩校で読書、習字などを学びましたが、剣道など武道を得意とし特に槍術は佐分利流を身に付け腕を上げました。さらにオランダ式の砲術を学び、知識の豊富さで二十歳のとき砲術助教となりました。その後、反射炉築造の研究に費やし、後の耐火煉瓦を製造する素地となります。
これからは武士の時代では無いと、武士を捨て商人になる決心をしたのは三平26歳の時、明治維新の七年前のことです。 オランダ商人の小銃転売に成功し巨利を得た三平は、禁制を破り朱の密売で捕らえられました。 今の執行猶予にあたる「親類預け」中にまた商売を行い、謹慎破りで石川島人足置場に収容されます。
特赦で放免された年、小泉信子と結婚し名前も三平を勝三に改め、神田弁慶橋に銃砲店を開きました。 そこで短銃の革袋も手掛けたのが、彼が革製品を取り扱う最初でした。その後、貿易の中心であった横浜に移り、屋号も「伊勢勝」と称しました。
時代は明治に入り文明開化が進み、勝三も新しい時代に適応する各種の事業を試み始めます。 外国米の輸入、東北米の買入、米相場、胴鉄販売、雑貨販売、牛の飼育、洋服裁縫店、綿羊の飼育、房総漁産会社、陶器販売など手掛けたが大部分は失敗に終わっています。 しかし後に偉大な失敗者と言われるほど彼の失敗の軌跡は将来の成功を暗示していました。 それは国益を重視し、私利を後にした失敗だったからです。
明治三十九年・勲五等、瑞宝章授与、翌年七十二歳没する。
【靴の生産開始】
明治二年兵部省が誕生し、日本の近代的兵制の構想者と言われる兵部大輔・大村益次郎から「これからの日本は、国民皆兵の制を敷き、洋式訓練を施す時代になり、兵士には洋服を着せ靴を履かせる事になるが、すべて外国より調達するようでは、国家の一大損失になる。 商工業にたずさわる君らこそ、そうした事業を積極的に起こして、自給自足できるように努力をしてほしいと思う」と言われました。 そこで、築地入船町に造靴工場を設け「伊勢勝造靴場」の看板を上げ陸軍兵士用の靴の生産を開始しました。明治三年三月十五日、勝三35歳の時であった。
さらに関連事業として製革工場が必要になり同年十月製革工場も設けました。 横浜の異人靴職人工レマルシャンを教師役として雇い入れ靴工達の技術向上を計ったり、弟勝郎を欧米に派遣し製靴、製革の勉強をさせるなどして生産量は上がりました。しかし靴材料のほとんどをヨーロッパから輸入したため高価につき経営は赤字続きでした。
さらに勝三より遅れて、関西で靴製作を始めた大倉財閥の祖となる大倉喜八郎の「大倉組皮革製作所」など同業者が増え受注の数が大幅に減少し窮地に追い込まれ、築地の工場を除きすべてを他人名義に書き換えさせられました。しかし、その後、佐倉の堀田氏、血盟の友依田氏などの応援を得て「依田西村組」と名称を改め事業を復活させました。
明治政府は産業の発展を応援する政策をとり、上野公園で第一回内国勧業博覧会を開催しました。全国各地から出品者は約千名、出品点数八万点、二日間の来観者四十五万人と大盛況でした。靴業が全国各地に発展してきため、靴も全国から多数出品されました。東京からも西村勝三・弾直樹・大塚岩次郎(大塚製靴の創業者)らが出品し、西村の「伊勢勝」には上位の賞牌を授与されました。
明治十年から七年間続いてきた「依田西村組」は出資者の堀田家の佐倉藩の語感から、「桜組」と改称しました。この名称はその後も長く愛用され、現在の日本皮革、日本製靴の前進となりました。
【勝三が行った他の事業】
(1)耐火煉瓦の製造
明治七年に銀座に日本初の瓦斯灯が完成しましたが、原料に良質の瓦斯用炭が必要になりました、折しも発展し続くける工業で鉄鉱の生産設備に使う良質の耐火煉瓦が望まれていました。
かつて研究した反射炉の経験から、瓦斯用炭を使用し耐火煉瓦を生産することに成功しました。 その後、需要の多い赤煉瓦の製造も行い、第5回内国勧業博覧会に耐火煉瓦を出品して一等賞牌を受けます。
(2)洋式ガラスの製造
工部省は舶来工業品のガラスに注目し、品川硝子製作所で板ガラスの生産を行っていたが軌道に乗らず、工場の経営を勝三が引き受けることとなりました。各国を視察研究しドイツの技術を取り入れた工場を造り、明治二十一年ビール瓶の大量生産に成功しました。
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